Entre la poire et le fromage 

『洋ナシとチーズの間』 パリのよしなしごとを徒然なるままに

アルハンブラの異邦人

 アルハンブラに行ったことがある。もの悲しいメロディーが思い出される。

 2000年代の半ば、秋から初冬に移り変わる季節だった。ヨーロッパをパリから出発して、ザック一つで旅を続けていた。防寒具は日本のアウトドアメーカーの茶色いダウンジャケット一つだったから、11月に入るともう寒くて寒くて仕方なかった。初めて越すヨーロッパの冬は、痩せた身体にしんしんとこたえた。単なる吹きつける風の冷たさ、温度の低さではない。もっと、地の底から伝わってきて、かかとから背骨、頭のてっぺんまで、骨髄をまっすぐに貫く寒さだ。言語と思考機能すら停止させる寒さだ。

 長旅に心身とも疲れ果てていた。新しいものに出会っても感動せず、何も感じられず、旅のための旅になって久しかった。心を強く閉ざして、自分をつくる最後の精神のひと束がどこかにプチンと音を立ててはじけ飛んでしまわぬよう、しっかりと抑えつけているのが精いっぱいだった。もう何ひとつ考えられないから、朝から日が暮れるまで、へとへとになるまで街を歩き回るしかなかった。お金がなく、美術館だの博物館だのといった名所に入ることなどまずできない。私は観光客ですらなかった。これまでの人生のうちでも、相当きつい部類に入る時期だった、と思う。自分という人間が粉々に砕け散るのを、すんでのところで何とか意志の力で止めているのだが、それも、ぎりぎりの限界に達していた、そんな状況。なぜかその時期を辛いとか悲しいとかいった名前のついた感情で思いだすことができない。それすら感じることができなかったのだろう。

 「夕暮れ」に続いて再び引き合いに出すが、堀口大学に「彼ら」という詩がある。

  「彼らよく知る よろこびに 果てあることのかなしさを

   彼らは知らず 悲しみに 果てあることのかなしさを 」

 読んだのは15歳の時だ。私もまた、周囲の人々が、単に喜びや楽しみに果てが尽きたことを悲しむだけの、薄っぺらい「彼ら」に見えて仕方なかった。「ああ悲しいなあ」なんて言葉に出して言えるうちはまだいい。そんなの、ほんとうの悲しみではない。殆どの人間は自分がそのように言うこと事態に、酔っているだけだ。ほんとうにきついのは、悲しむべき対象すら失って、涙すら出ず、もう悲しむことすらできなくなった時。たいていの人間は――つまり「彼ら」は、永遠にそれを知ることはない。

 ・・・堀口大学は越えられねえ、、、と思った。(注:もう一度書くが、ワタシ、当時15歳である)たったこれだけの行数で、端的に人間を描ききってしまう見事さ。「文学的第一次ショック」を得た次の瞬間、「にも関わらず、人間である以上、私たち、生きていかなきゃいけないんだよなあ」と次なるショックの波がやってくる。彼は文学者として、人間が生きて行く上でぶち当るあらゆる種類の理不尽に関し、一般の人たちが抱えている気持ちを代弁するという立派な業を成したわけだが、究極のところ、どれだけ堀口さんが上手に自分を分かってくれたとしても、我々は明日、この不合理な社会を「にもかかわらず生きていかねばならない」という切実な問題は残される。だとしたら、私の文章を書く役割は、むしろ「にもかかわらず」のほうにあありたいと、そう強く願った。そういう熱い時期も、当然ながらあった。

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 アルハンブラを思い出す時、浮かんでくる風景がある。11月も終わりだったか、ネバダ山脈の連なりのてっぺんがところどころに白い冠をかぶり、街のどこも茶色い枯れ色で覆われていた。私はアルハンブラの宮殿のふもとまで行き、W・アーヴィングの描いた世界を覗いてみるべきかと迷っていた。だってここはスペインだ。グラナダくんだりまで来て、ライオンの噴水だのなんとかの間、だの、月夜に燦然と輝く中庭――を見ずに通り過ぎるわけには行くまい。でも何ユーロもする入場料など払えるわけがない。私はため息をつきながら、夢の宮殿をいつまでも眺めていた。アルハンブラ物語のなにか美しいシーンを思い出そうとするのだけれど、寒さで凍えてうまいこと思い出せなかった。

 どこからかギターの音が聞こえてきた。振り返ると、いつからかひとりの青年が石畳に腰かけギターを奏でていた。品のいいタートルネックのセーターを着ていて、ダーク系の色が、彼の放つ雰囲気と、その曲の感じによく合っていた。ネバダ山脈とアルハンブラ宮殿をバッグに、そのままポストカードにでもなりそうな風景だった。曲はどこかで聞いたような気がした。しばらくメロディーに耳を傾けていた私は、それでもタイトルが思い浮かばず、曲が終わったところで思い切って声をかけた。「Englishman in New Yorkだよ、STINGの」。そういうと今度は歌付きで、もう一度私のために演奏してくれた。声のトーンは、スティングによく似た、ちょっと高めのハスキーボイスだ。異郷の地で聞く声も歌詞も、一句一句が刃物みたいに、飢えた心に鋭く刺さった。

 「珈琲は飲まない、紅茶にしてくれ トーストは片側だけ焼くのがいい

 訛りがあるから分かるだろう 僕はニューヨークの英国人」

 「5番街を歩いても いつもステッキを持っている」

 「僕は異邦人 合法的な異邦人 Englishman in NY 」

  続く2番の歌詞で「誰がなんと言おうと、自分らしくあれ」とうたうあたり、若い心にそれなりにすとんと落ちた。日本語で、この部分だけ誰かに言われたらそっぽを向くだろう。文章で読んだらなおのこと、単なる説教にしか受け取れなかったかもしれない。でもSTINGのメロディーにのれば、当時二十代も半ばを過ぎ、いろんなことが手遅れになり始めていた私にとって、この曲の根底に流れる「途方もない悲しみ」――それは、悲しむことすら喪ってしまったものの悲しみ――が、波のようにシンクロしてきた。どうしようもないぐらいだった。異郷の地で、同じはずの英語を話しながらも、それでもやっぱり「異邦人」でしかない彼の孤独が、手に取るように見えた。寒さといっしょくたになって、背中を丸めてじっと抱え込んできた私の中の何かが、その時STINGの、いや、ギターを弾く名も知らぬ彼の歌声にのって冬のネバダの山並み彼方へと溶け出し、流れていった。音楽には不思議な作用がある。人生を積極的に仕掛けるためのファイトを駆り立てる音楽もあれば、中には黙って寄り添うだけで、なにがしかの肯定をもたらしてくれる、そんな音楽もある。

 印象的だと感じたはずの、その肝心な部分の歌詞を自分が長いこと間違えたまま覚えていた、という衝撃的な事実に気づいたのは、つい最近のことだった。

「Beyourself no matter what thay say」の「誰が何と言おうと」のTheyを、今までずっと「Beyourself no matter what you say」you君が何と言おうと」と勘違いしていたのだ。風呂場で、ジムの更衣室で、バスを待ちながら、etc.事あるごとにそう口ずさんでいた。先日、たまたま店で流れた曲と一緒に口に出した時「あれ、youじゃなくてtheyって言ってないか??」と自ら気づいてしまった。ちゃんとゼイのthの発音が聞こえるし、そもそもyouなら「ワッチュー」みたいに繋がって一語に聞こえるはずでは・・・。試しに一人で歌ってみたら、ちゃんと「ビーヨォーセルフ・ノーマター・ワッチューセ~イ」と勝手に繋げて、自分が言いやすいように歌っている。なんてことだ。これまで何年も私の頭にインプットされ、youと疑いもせずに来たのはどうしてだろう。「No matter what you want」(あなたが何を欲しがっても)というNo matter whatの受験生的構文が、頭にこびりついていたのだろうか。 

 日本語で普通に考えたって、youが不適切なのは一目瞭然じゃないか。二人称youだと特定の誰か、つまり「あなた」や「君」が分かってくんなきゃ僕は僕で勝手にやるからいいもんね、というただのひねくれ少年になってしまう。それじゃ全然違うハナシになる。ここは不特定多数の「周囲」、つまり歌い手の「僕」を孤立させ、孤独を感じせしめている「彼ら」に対して「誰が、何と言おうとも」という、自らの自尊心をかけた、力強い、孤高の生き方宣言なのだから。

 ああ、――「彼ら」、だったのか――。私はそのとき、頭を打たれたみたいに、思った。

 堀口大学の描いた「彼ら」も、STINGにおけるTheyも、国も時代も、話す言葉も違うけれど、それは私の中で、一直線に結びついた。「果てあることの悲しみ」を知る人間として、繋がりあうことのできる、数少ない者同士。

 このふたりを前にして、私は悲しみに関して発する言葉を持てない。一つだけ分かるのは、悲しみの果てを知る人間だけが、ほんとうの「よろこび」を伝えられるということ。世の中は安直な希望や癒しに満ちている。それでも、深い孤独の井戸の底に、覚悟を持ってたった一人で降りていった個人だけが発することのできる、言葉、物語、そして音楽の力を、私は信じている。


Sting - Englishman In New York - YouTube

 【追記】動画はSTINGの公式ミュージックビデオで1987年。NYの都会の冬の寒さと白い息までもが白黒画面で伝わってくる。最近では2010年のベルリンライブのものがおススメだ。何と言ってもウィリントン・マルサリスのサックス姿が堪能できる貴重映像。ちなみにSTINGが「Beyourself」とリードした後、観客に上記の個所「No matter what they say」の部分を投げかけて何度か繰り返す。

 あ、またyouって書いてないよね?