Entre la poire et le fromage 

『洋ナシとチーズの間』 パリのよしなしごとを徒然なるままに

コーヒーを一杯で一日

 毎朝、地下鉄4番線に乗ってvavinという駅で降りる。地上に出れば14区、モンパルナス大通りだ。交差点付近に似たような高級レストランが並んでいるなと思っていたが、それが「ル・ドーム」「ラ・ロトンド」「ル・セレクト」「ラ・クーポール」の、いわゆる『モンパルナスの4大カフェ』と知ったのは、随分経ってからだった。パリでカフェといえば真っ先にサンジェルマン・デプレ。サルトルの書斎がわりだった「カフェ・ド・フロール」や、文学カフェとして名高い「レ・ドウー・マゴ」がある。モンパルナスの老舗は、ノーマークだった。

 1898年開業の「ル・ドーム」はダリ、ピカソ、フジタ、モディリアーニといった芸術家から写真家のロバート・キャパも常連だった。今は魚料理の店として名高い。いつもガラス越しに、きちんとした服装の年配の男女がワイングラスを傾けている姿が見える。若い層や子供はいない。向かいは、ダンス場を兼ねていた「ラ・ロトンド」で、1903年開業、作家シーモーヌ・ド・ボーヴォワールが巣立ったカフェとして知られている。

 眺めるだけならタダだ。自分が入る機会なぞ、生きているうちはなさそうだ。パリで最も悲しいことのひとつに、旨くて安い珈琲ががぶ飲みできないことがある。私は日本に居る時から重度の「ドトールっ子」だった。通常、一人で窓近い静かな席に座り、頼むのはブレンド180円と決まっている。(チケット綴りがお得である)そしてこれは私のコーヒー味覚のスタンダードになっている。それより安い、お代わり自由のファミレスやハンバーガー店のコーヒーもあるが、ドトールラインから質が落ちるのは許せない。逆に一杯300円を超える高級な珈琲専門店もダメだ。いくらこだわって上質な珈琲と空間を提供されても、こっちがどぎまぎして落ちつかず、そもそも毎日飲めない。わざわざお金を払ってそんな思いはしたくない。文庫本だの書きかけの文章だのをひっさげて行くには、結局「ドトールの180円」が、最良の友なのだ。

 パリで珈琲にあり付けないわけではない。カフェのメニューには「un cafe」がある。でもそれはエスプレッソのこと。なんであんな小さいカップでちびちび黒い液体をなめなくてはならないのかと、昔からエスプレッソが腹ただしくて仕方ない。この国で、我々日本人が一般的に思い浮かべる時の「フツ―の」ブレンド、あるいはアメリカンコーヒーを注文したければ「カフェ・アロンジェ」と言う。それでも「はいはい、エスプレッソに湯を足しゃあいいんでしょ」、面倒くさいこというねお客さん、まあ作ってやったよ――という感じだ。あって然るべき愛情も、コーヒーに対する敬意も感じられない。こんな時、私はなぜ行くべき場所をNYにしなかったのか、ロンドン、せめてカナダにしておけば、と胸の中で小さな葛藤を繰り返す。

 私のコーヒー好き、ドトール好きはおそらく高校生の時に始まった。別に恰好をつけているわけでなく、砂糖もミルクも入れないのは単純に珈琲そのもの味が好きだから。今も昔も、ブラックでしか飲んだことがない。大学生の時にアメリカの大学にちょっとだけ行く機会があって、NYという街でうわさの「スターバックス」なるものを発見した。ちょうど日本にも上陸したころで、その後、街や駅であの女神の微笑みを見かけるようになった時は、凄いことだと思った。私にとって、米国ドラマの主人公たちが必ず仲間と喋りながら手にする「コーヒーのある風景」は、我々東洋人が背伸びしたって届かない「西欧のスタイル」であり、永遠の憧れだと思っていた。結局、私が「スタバっ子」に変身することはなかった。いちばん小さいブレンドだってドトールに比べたら高すぎる。注文から出てくるまで時間がかかる。実際に味わうより、タンブラーや商品を眺めているほうが楽しいのだ。

 パリにドトールはないけれど、スタバは結構ある。だいたい外国人でにぎわい、店の前のテラス席では英語が飛び交っている。スタバ日本初上陸が1996年、対してフランス、パリは2004年とかなりの時間差がある。

 ある寒い冬の日、私はオペラ座前で人を待っていた。相手は長距離バスでやってくるのだが、エンストを起こし予定到着時刻を大幅に遅れるという。外に居たら凍えてしまうので、どこかカフェにでも入っていてくれないか。そこで私はオペラ座から一本南下したキャプシーヌ通りへ出て、一時間ぐらい居座れそうな店を探した。スタバの女神、発見。見た目は至って普通、他店と何ら変わりない、シンプルなデザインの外観である。入ってみて、注文カウンターの行列に「これじゃ座る場所ないかも」と、先に店内を偵察した。階段を上がり奥へ進んで仰天!ここは星付きホテルか、宮殿か?四方はどこもかしこも鏡張り、天井からは大小たくさんのシャンデリアが。柱の装飾も天井に描かれた絵も、いかにも「ヨーロピアンでござい」と豪華絢爛に胸を張り、もしやシャガールじゃ、、、と恐れおののく。人々は、ルーブル美術館の「家具・調度品」で見たような肘つきソファーに腰掛け、高級そうなテーブルを囲んでいる。その上に、スタバのコーヒーだのフラペチーノだの、チョコレートスコーンだのが普通に置かれているのだ。

 雰囲気の違う小サロンが幾つも繋がっている。「こっちが『鏡の間』で、あの奥が『琥珀の間』だわ」、、、、時代を飛び越え、勝手にイメージを膨らませる。パリのアパートは古く、築何百年が普通。ウィキ先生で調べれば、きっとここも「18世紀のナントカ夫人の邸宅」と出てくるに違いない。思っていたそばから、アップルのノートパソコンを広げた米国人風カップルの流暢な英語が飛び込んできた。(もちろんWIFI対応)「間違いない、ここ“豪華なパリのスタバ、もとはナポレオン三世の屋敷だった”って書いてある」なるほど。ありがとう。

 ちょうどコーヒーを飲みだした、高校1年生の秋の、ど真ん中の思い出。

 宮崎駿監督『紅の豚』がテレビ初放映された。アニメ映画は興味がなく、公開時には見に行かなかった。加藤登紀子の『時には昔の話を』がエンディングテーマになっているのは知っていたから、私はこの歌の部分だけをテープに録音し、当時ソニーの空色のウオークマンで何度も何度も、繰り返し聴いた。一時停止して、歌詞を大学ノートに全部書き写した。15歳の秋を、私は孤独とともに過ごしていた。いくつかの複雑な理由がある。諦めた夢があった。

 歌詞で、彼らはマロニエの並木の見えるところに、通い慣れた店というものを持っている。そこで一日一杯のコーヒーで粘りつつ「見えない明日を むやみに 探して 誰もが 希望を 託した」。「嵐のように 毎日が燃えていた 息が切れるまで 走った そうだね」 

 この歌を“オトキサン”が書いたのは1987年、43歳の時。自伝『青い月のバラード』(小学館:2003年)に詳しい。歌手として大きな節目を迎えようとしていた。若かった「あの頃」を振り返り、懐かしみつつ、それでも「加藤登紀子」として前に、前に、と進んでいく。

 ここで歌う「思い出」とは、直接的には学生運動のことだ。たかが15歳の私には、だから想像もつかない世界で、どんなに胸に迫るものを感じたとしても、学生という存在すら遠くにあった。「あの日の全てがむなしいものだと それは誰にも言えない」なんて、あの時代をともに生きた人でなければ、本当の意味では理解しえないセリフだろうと、今でも思う。

 それでも当時、おさげの制服の少女は思った。自分はオトキサンのように、何かに熱くじぶんを捧げるというようなことはないかもしれない。でも、何十年後かに、あの頃は必死で走ったと、そういい切れる青春時代を送れるか、分かち合える仲間を何人持てるか――、そんなふうに未来に思いを馳せながら、この曲を聴いていた気がする。

 セーヌ川右岸のモンマルトルに対し、左岸のモンパルナスが20世紀前半には世界中の芸術家たちの集う場所になった。1920年代は「狂乱の時代」と言われ、特にピカソら移民の芸術家、知識人たちがモンパルナスを拠点としはじめた。レーニンなど亡命する政治家たちもここに隠れていた。多くのアメリカ人がやってきて、モンパルナスで出版社を立ちあげ、文芸の拠点とした。ヘミングウエイ、フォークナー、ジョイス、既に小説家として名を成していたスコット・フィッツジェラルドもいた。

 モンパルナスのカフェは、だからいつも腹をすかせた芸術家たちでいっぱいだった。暑さや寒さをしのぐ場所であり、アイディアが生まれる場所だった。喧嘩が絶えなかった。コイン一枚で、一晩中居座れる場所だった。彼らが眠ってしまっても、ウエイターは決して起こさなかった。飲み代の代わりに、描いた絵を預かってくれた。そういう場所だった。

 時も場所も違えど「見果てぬ夢」を見ていた者たちがここにもいた。

「お金はなくても なんとか 生きてた/貧しさが 明日を運んだ/熱い時代の風を感じて 体中で 瞬間(とき)を感じた」 人間たちである。

 コーヒー一杯で一日を過ごした時代の彼らの熱い名残を感じに、パリにいるうち一度ぐらい、覗いてみるのも悪くないかも。

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