Entre la poire et le fromage 

『洋ナシとチーズの間』 パリのよしなしごとを徒然なるままに

ダンサーの悲哀 

 ミック・ジャガーは若い頃、「45歳になって『サティスファクションを歌っているぐらいなら死んだ方がマシだ』」と豪語した。しかし実際には60歳を過ぎた今でもサティスファクションを歌い続けている。若き日のミック・ジャガーには45歳になった自分の姿を想像することができなかったのだ。――(『走ることについて語る時に僕の語ること』村上春樹)

 NYブロードウエイの女性ダンサーの引退年齢は28~29歳だと聞いたことがある。その後は、教師、スタジオ経営、あるいはファッションデザインやアートといった関係業種に就く人が多い。一般的に言って、「現役ダンサー」として身体的能力の限界を感じるのが、30の境目なのだと思う。だからそこで多くのダンサーが現役を退く選択を迫られることになる。

 フランスでは少々事情が異なる。「辞めたら教師でも」という安易な選択はない。養成学校で国家資格取得が必要とされるから、実力のある者は学校を出てすぐ「ダンサー、コレオグラファー(振付家)、そして教師」という三足のわらじを履いての競争が開始されるのだ。3つは互いに影響しあい、ダンサーとしての活躍は、コレオグラファーとしての能力を高め、結果的に教師としての仕事や人気度を増すことに繋がっている。反対にダンサーとして落ちぶれてくれば、あるいは作品に目新しいものがなくなってくれば、即、若手にとって代わられ、同時に教師の職も失うことになる。だから若い時には3拍子揃ってめちゃめちゃ忙しく、年とともに仕事の数は3つそろって一気に落ち付いて行く――というパターンになる。(オペラ座バレエ団は除く。彼らは42歳定年まで現役ダンサーとして踊り続け、その後監督業に回ったり教師になったりする)

 フランスでは(バレエ)ダンサーは40歳から年金がもらえる。ひとつ公演に出ると給料、食事代、その他諸手当が保障され、それなりの額になる。月にいくつかこなせば充分生活の目途はつく。そうしたこともあってか、芸術家は欧州のほうが理解があって生きやすいと我々日本人は考えがちだが、全くの誤解だ。ダンサーはフランスではきちんと国家で定められた正規職業訓練と試験をパスした「国のアーティスト」ゆえ、手厚い保護がなされているわけである。日本のように、小さい時から習ってました、大きくなって、所属バレエ団の公演にも出ました、なんとなく教えるようにもなりました、というような者は一人も居ない。それではダンサーとも教師とも呼ばない。

 フランスでは、ダンサーになるまでも大変だが、「あり続けること」のほうがさらに厳しい。生き馬の眼を抜くような激しい「淘汰」に日々さらされる世界だ。日本にはそうした文化がないから、ひとたび大きな組織に入ってしまえば安泰という企業的ムードは否めない。

 私がフランスでうっかりstreet Jazzに心惹かれた、最初の指導教師はJという。何を隠そう、スポーツクラブのジムのダンスクラスである。すぐにパリの他のダンススタジオにも並行して通い始め、あるスタジオでゲスト教師陣に彼の名を見つけた。だいたいパリのダンサー育成事情やら業界勢力図(?)やらが飲み込めてくると、今40代に差し掛かったであろう彼の経歴を通して、おおよそ養成学校を出た後の国家ダンサー、教師の道のりが見えてくる。

 パリには今有名な養成所は3つあるが、たいていはうち2つのいずれかで資格を取っている。ダンサー、コレオグラファーとして活躍しながら、まずは母体のスタジオで1.2クラスを受け持ち、それが次第に5~6、人気の教師だと月曜から土曜までの連日殆ど、という状態にまでなる。これが20代の第一段階。ここで30代の大きな分水嶺を迎えることになる。どれだけ人気教師でも、台頭する若手にコマを譲り渡さなければならぬ日はくる。押しやられた彼らはどこへ行くか?そう、市内大手スポーツクラブである。ここでダンスプログラムの担当として週に何コマかクラスを受け持つ。運が良ければここで人気講師となり、彼のクラスは常連さんが一杯、月ごとに特別イベントも、なんてことになるけれど、最終的にはダンスのダの字もしたこともない、ナイキやアディダスとスポーツシューズの若者から、殆どおしゃべり目的だけのサロンと化した年配の「お客様」相手に、満足してもらえる時間を提供する仕事になる。プロを目指し、あるいはお金を払ってでも自分のクラスを受けに来てくれたこれまでの未来ある後進とは天と地の差だ。カウントも何もあったものではない。振りを間違えようが、怒鳴ることもできない。ダンサー、コレオグラファーとしての能力とは、この時点でほぼ決別を意味し、潔く一企業人として身を投じるという気持ちの切り替えをするのかもしれない。 

 そうこうしているうちに40歳を迎えるのだろう。あるモダンクラスの女性の先生は(50代ぐらいだと思うが)私にスタジオへ行けと勧めてくれた。彼女もまた「何十年も前に」そこで教えていたそうだ。いまは60代ぐらいの親衛隊(ダンスではなくおしゃべりが主)を引き連れ、クラスを楽しくまとめている。それはそれで和やかな時間が存在する。

 一方、Jのクラスはもう6年だのそれ以上も通っている生徒が殆どで、みな彼の振りと特徴を知り尽くしている。強い輪ができている。会話すらままならない、チビの東洋人(私)がぽんと入ってきた。こちらの人は男も女もみんなでかく(存在感の問題です)乱入した小学生は、いっつも男の人の影に隠れてしまったりして鏡に写らない。帰りがけにJが「君、いつもプチ・エスパス(小さな場所)で踊ってる」って。もっと前へ出なきゃダメだって意味だと思ったけど、分かるまでに時間がかかりすぎ、答える言葉がすぐに出なかった。せっかく言葉をかけてもらえたのに、悔しく情けなかった。ダンスなんだから、踊りで全て分かってもらえると思っても、たぶん、それは、違う。行うべき全ての努力の可能性を、自ら放棄しちゃ、いけない。

 Jは今日、2つの通常レッスンをこなしたあと、ジムの特別イベントで夕方の一時間、激しいスポーツプログラムを担当した。それはダンスというには程遠い、ワークアウト系、いわゆるボディジャムなどと呼ばれる脂肪燃焼目的の有酸素運動だ。振りは一見ダンスだけれど、来ている人たちはカラフルなスポーツシューズとウエアに身を包んで、一時間楽しく手足動かし続けハッスルすることを願う人々である。そのようなスポーツ集団相手に、Jは、最後の一時間を私がかつて見たことないほど気合を入れ、大きく声を張り上げ、スタジオを左右くまなく飛び回り、息つく間もなくリードしていた。がんがん鳴り響く音楽と人の多さ、空気の薄さで、私は実は結構ふらふらだったのだけれど、頑張っているJをみたら、こっちも手を抜いたら悪いような気がして、結局最後まで私もついていった。

 踊りながらふいに涙がこみ上げそうになった。

 Jだって、昔は、こんな日が想像できなかったはずだ。国家のダンサーとして、輝かしい舞台に立つ日を夢見て訓練に汗を流した青春の日があったんじゃないか。恋もしたろう。誰かへの想いを踊りに託したこともあったろう。未来は180度開けていた。コレオグラファーとして、野心も野望もあったはずだ。それでも、あるとき第一線を退くことを余儀なくされ――おそらく年齢的なもの、身体的な衰え、若手の台頭――、他の人より少しだけ早く、残りの人生の射程を視野に入れ始める。今はまだ、スポーツクラブで人気講師としてクラスを受け持っている。彼の本当の魂のありかは別としても。それですら、いつまで続くか分からない。飛べる力、一日3クラスも続けられる体力が、いつまで残されているか。自分の限界は自分で決める。多くのスポーツ選手がそうであるように、ダンサーもまた、過酷で、孤独な職業だ。

 Jには、まだやりたいことと、それをできる能力が余って仕方がないように見える。体力的なことは本人にしか分からない。実際、二日前のレッスンはひどく咳き込んでカウントをとる声が出ず、心配になるぐらい調子が悪そうだった。でもこうしてイベントに向けてしっかり調整してきたあたり、プロである。

 Jはまだ、踊りたいんじゃないかと思う。コレオグラファーとして、作品を造りたいのではないかと思う。プロの「ダンサー」として。ミック・ジャガーの言う、45歳になる前に。彼だって、45歳になった自分がストリートジャズを踊っている姿なんて、想像しなかったはずだ。

 サックスやトランペット吹きといった音楽を選べば、まだ良かったか。年齢を重ねても続けることができるし、むしろそこには人生経験を通じた深みというものが増す。でもダンサーはそういうわけにはいかないのだ。マイケル・ジャクソンは50歳で死んでしまったけれど、60を過ぎてもビリー・ジーンを歌い、踊っただろうか(まああの人なら――やりかねない)

  年齢を重ね、いくつかの傷や痛みを引き受けてきた時、自然とstreet Jazzを踊りたいと初めて思った。そうした人間の踊る(あるいは創る)ダンスに共感を持って「観る」ことができるようになった。 ダンスをすることで、身体的に自分を極限にまで追い詰めることで、ああ、自分はlimit(能力の限界)のある人間なんだな、と認識する。それでもやめないでいること、何かの途上でありつづけること――、それはとてもすてきなことだ。今の私なら、そう臆せずに言うことができる。伝えたい。でもこの語学力じゃ、一生かかっても無理だ。

 J,あなたは昔若かった。カッコ良かった。これからも。誰が、何と言おうと。