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Entre la poire et le fromage 

『洋ナシとチーズの間』 パリのよしなしごとを徒然なるままに

『無関心」と『多様性を認めること』のちがい 

Paris,France

 パリは「多様性を認める街」だと思っていた。

いろんな国、いろんな言語、いろんな肌の、いろんな人々がいるからこそ、

 いちいち他人の事情なんか構っていたら大変なことになる。責任が持てないなら無用な優しさなどかけるべきじゃない。そういう街。人情はガキだと思われ、正しいことはすなわち弱いこととされる。強いことは我であり、我とは法律である。

 『慈悲』に値するフランス語がうまく訳せない。miséricorde(同情、情け)なんてのがあるのだけれど、そこには東洋的な相手を想うなにか大切な心が、うまくtraductionされていない気がして。日本語の文章を生み出すことを生業とし、異国で生活していると、伝えたい人に真意を伝えられない時、あるいは通訳を介した時に「そういう意味で今この言葉を使ったんじゃないんだよ」というストレスが生じて、何ともいえない気になる。逆もまた然り。英語の本を日本語に訳する時、、「ああ、このニュアンスとしては、絶対的に日本語では無理だ」という絶望的な一瞬が何度かある。そこをどうにか手を尽くして、頑張るのが面白いんだけど、それはまた別のハナシ。

 物事は、いいように捕えようとすれば、逆の面もある。

「多様性を認める」=あんたたちどうでもいいよ、好きにして=究極「無関心」ってことだ。

 誰がのたれ死のうと、助けない。ほんの少しの間この街に留まり、通り過ぎてゆく世界中からの人々。そんなものを見るのは、パリの人々にとっては小さい頃から当たり前なんだな。自分たちこそが真の「パリジャン」、どこの草ともしれぬただの「passants:通行人」に関わる必要は1ミリもないのだと。

 明日、私がこのパリから消えても、誰一人私を覚えていない。明日ダンスに行かなくても、誰も私と「ダンスという言語」を共有していた半年を、覚えていない。私はそこに居たけれど居なかったも同じだから。皆自分のことしか興味が無い。他人に関心など最初からない。例えそうでも、せめて自分と闘う人々がいれば―――少しは「戦友」としての共感も、持てたかもしれないが。

 それすらなく、ここに留まる理由の一つもない。

 無関心が愛の反対語だと言った、偉人の言葉を私は信じない。

 そんなもの、いくらでも愛の街に溢れているじゃないか。無知な人間の振り回す愛だの無関心だの、感情の国に生きることが、自らの能力をこれほどまでに押さえつけ、無為な日々を送らせることになるとは、思わなかった。

 もう、取り返しがつかない。

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